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17日間の夏 ------増元照明、熱い選挙戦の軌跡

photo 投票日前日の7月10日、夕刻に数寄屋橋の雨は上がった。喉を嗄らしながら増元照明は最後の声を絞り上げた。17日間の選挙戦の最後の遊説場所をここに選んだのには理由がある。選挙戦の第一声もここで挙げたのだが、7年前に家族会が結成され初めて署名活動を行ったのもこの場所で、その時いた横田滋、早紀江夫妻、有本嘉代子、地村保、浜本雄幸も最後の応援に駆けつけていた。家族会結成時のほとんどのメンバーが7年前と同じ場所にいた。2年前拉致被害者家族が帰国した二日後に亡くなった増元の父、増元正一氏も、彼が選挙戦最後の声を上げているこの場所にいた。

「1997年、平成9年、家族会が結成されすぐ、このマリオン前から署名運動、拉致被害者救出の署名運動が始まりました。その時はまだどなたもこの北朝鮮による拉致というものに対し何ら怒りを示していただけない、何ら反応も示していただけない、そんな運動でした。しかし、それがこの地から徐々に徐々に全国に広がって、輪がどんどんどんどん大きくなっていきました」
 声のかすれも気にならなかった。時計の針は7時半を回っていた。午後8時まで選挙活動が許されているので、最後の演説は心置きなく声が出せる。7年前家族会が結成され、初めてこの場所で署名活動を行った時、誰一人ビラを受け取らず、署名する人間も数えるほどだった。その時から何一つ変わらない闘いを彼らは続けている。最初の署名活動で余りの反応の無さに増元も父の正一も心から失望したが、その時から、世間の冷たい風は肌身に感じていた。

 一昨年の9.17から日本中が拉致問題で熱狂し、家族が帰国した10.15でピークになり、そのまま半年間、彼らの活動はメディアの北朝鮮情報の洪水と世間の同情の波に乗せられたが、最初の数寄屋橋の署名活動で味わった悔しさが出発点にあるので、家族へ寄せられる異常な熱気が去って行っても彼らは決して怯むことはなかった。変わったのはメディアと世間であり、彼らは何一つ変わっていないからだ。ただ、変わったのは彼らの年齢だ。この一年半、横田夫妻や有本夫妻、家族会副会長になった飯塚茂雄は、私生活全てを犠牲にして全国を回っていたので、被害者の親や兄の世代は顔に刻まれる皺も多くなっていた。したがって、横田めぐみさんの兄、拓也と哲也、田口八重子さんの息子、飯塚耕一郎たちが親たちに代わって活動の前面に出ることもしばしばだった。

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 選挙期間も半ばに差し掛かった頃、有楽町の海外特派員クラブで増元照明は記者会見を行った。海外プレスの参加希望者が予想外に少なかったので、国内メディアにも増元の選対本部は参加を呼びかけた。海外メディアの反応も鈍くなっていることにスタッフは危機感を覚えた。というのも、それは家族会・救う会の運動が手詰まり状態に陥っていたことの裏返しであったからだ。世論の関心は、実際のところ、家族や被害者への <同情> が核になっていたからだ。<同情> は時間とともに薄らいで行く。何しろ、何年に一回と思われるような大事件でも、翌月には人々の記憶から忘れ去られるご時世である。拉致問題が国民の関心を喚び続けていたこと自体奇跡だったのかも知れない。

 ただ、こういう疑問もある。拉致事件で家族が日本中の世論を喚起したのは、本当に <同情> だけだったのだろうか? 「可哀想だ」という感情だけでなく、拉致事件の背後にある日本の絶望的な状況、テロ国家に恣(ほしいまま)にされてきた日本という国家の現状に怒りを感じた人たちは、拉致問題を自分の問題にも置き換えることができ、<同情> を超えた <連帯> へと意識変革も行われていった。だからこそ、「拉致はテロだ!経済制裁を」というスローガンも説得力を持ってきた。
 自分の問題に置き換えるという事は、自分も当事者と同じ立場で闘うということに他ならない。

 だが一方で、拉致問題への関心が「可哀相」という感情論で成り立っていたことも紛れもない事実だった。それでも、そういう人たちに向けても増元は愚直とも言える正攻法で選挙に臨んでいた。しかめっ面で笑顔がない、というイメージを敢えて保ったまま、選挙に臨んだのも彼の潔さから来たものだ。イメージ選挙の時代に、増元はイメージ戦略を捨てて、自分の伝えたいことだけを伝えれば有権者は反応してくれると思っていた。
「同情を得ようとは思っていなかった」とある関係者は言う。選対本部はひたすら、「拉致問題の解決を通してこの国を変える」というスローガンを訴え続けようという方針に固まった。

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 増元が選挙に出ようと思ったのは3月だった。膠着した拉致問題に新しい打開策はないかと考えていた時、勤務する水産会社から配置転換を言い渡された。新しい部署はこれまでの活動ができる勤務体制はなかった。増元の選対本部は特定失踪者問題調査会のメンバーが当たることになった。救う会・家族会の中でも立候補には賛否両論だった。草の根的に彼らを支える人々の間でも増元の立候補が話題になると議論が噴出した。選挙に出て負ければ、拉致被害者奪還活動のダメージになる、という意見がほとんどだった。
「そんなことは分かりきっていたが、選挙に出るのも天の声だと思いました。会社にいればこれまでのような活動はできなくなる。今まで会社に理解していただいていましたが、会社には会社の都合もあります。それなら会社を辞めて、退職金を全部選挙に注ぎ込んでやろうじゃないかという気になった」

 そんな気持ちでスタートした増元の選挙活動は正直を絵に描いたようなものだった。およそイメージ選挙と程遠く、さらに「どぶ板選挙」と言われる日本独特の選挙活動とも無縁だった。何から何まで素人だった。選挙活動は、普通、選挙参謀と呼ばれる選挙のプロが司令塔となって手練手管の選挙運動を指揮する。選挙の表から裏まで知り尽くした <プロ> の選挙屋が仕切るのだが、増元陣営は前述したように特定失踪者問題調査会の幹部たちが代行した。彼らは基本的に学者である。立候補するなら何が何でも当選させなければならないが、彼らはそんな原則を無視するかのような正攻法の選挙戦をひたすら闘った。
 選挙戦半ばでメディアが情勢分析を発表したが、増元はどの調査でも当選圏に届かなかった。選挙を取材していたある新聞記者はこう言う。
「まず組織票が見込めないことが最初から大きなハンディでした。自民党はもちろん、民主党も組織票があるし、今回立正佼成会が民主党を支持していました。それでも、組織も何もない新人は何があるか分からないので、サプライズも期待していた。でも、増元さん支持を表明した石原都知事が三男を人質に取られたような形で、自民党の圧力で動けなくなった。それと、救う会の使途不明金のスキャンダルまで出てきた。あれでは当選する方が不思議でした。それでも、救う会のスキャンダルは報道を抑えましたよ。あんなタイミングで出てきた選挙妨害のようなネタを扱ったら、増元さんや、いつも応援演説をしていた横田さんが可哀相でしょ。あんなの酷で扱えませんよ」

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 有楽町で増元の最後の演説は続いている。

「2002年1月、ブッシュの一般教書による <悪の枢軸> 発言。以来、金正日が大きな圧力を感じました。さらに家族会との面会で小泉総理は当時、北朝鮮との国交交渉の再会は拉致問題の全面解決なくしてはあり得ない、そう国内外に宣言されたのです。
 その大きな圧力が金正日をようやく動かし、そして拉致を認めさせました。5人生存、8人死亡、2人不明。大きな悲しい、しかし出鱈目な報告であっても、国民の皆さんはこの北朝鮮の報告に対し、さらに大きな怒りをあげていただいた。本当に感謝申し上げます。それがために1ヶ月後に生存とされた5人の被害者が帰ってき、そしてその後日本で待っている間に、皆さんが大きな声を上げていただいたおかげで長くはかかりましたが、1年8ヶ月でようやく5人の子供たちを取り戻すことが出来た。残った曽我さんの子供たちとは昨日、ジャカルタで再会出来ることが出来ました。本当に皆さん、家族会として感謝申し上げます。皆さんお一人お一人が大きな声を上げていただいたお陰だと、家族会は本当に感謝申し上げます。

 私が一番危機感を抱いている、家族会が一番危機感を抱いているのは、今回の小泉再訪朝に際し、私たちの国が私たちの家族を見捨ててしまうのではないかという、そういう思いが見えてくるからです。皆さん、よく考えてください。一昨年の9月17日と今、今年の5月22日、北朝鮮の、死亡とされた人たちの生存情報を日本政府が集めて、持って金正日に突きつけた、そういうことがあったでしょうか。ありません。1年8ヶ月あったんです。その間に日本政府が本気で、この拉致被害者、死亡とされた8人を含み、不明とされた2人を含み、さらにその後ろに控える100人以上の拉致被害者の生存情報を取ろうと思えば、やろうと思えば出来てるんです。出来るはずなんです。

 なぜなら、民間の特定失踪者問題調査会で、すでに国家が認める10件15人以外で28人も拉致の疑いが濃厚であると警察に告発しているんです。その根拠となるのは、民間のメディアの皆さんも一緒に拾い集めた、脱北者、元工作員たちの証言をもとに、大勢の拉致被害者を目撃したというその証言を拾い集めてきたんです。なぜ、国家がそれを出来ないんですか。やろうとしないからではないですか」

「そうだ、そうだ」。拍手と声援が飛ぶ。増元の演説には何の虚飾も誇張もない。事実を淡々と力強く訴えるだけだ。海外特派員協会で記者会見が行われた時、特定失踪者問題調査会の真鍋貞樹はこう言っていた。
「これまで同盟系の選挙活動をしたことがありますが、こんな反応は初めてですよ。街頭演説をしている時にカンパをしてくれる方がいる。中には1万円のカンパもある。演説を聞いてくれる人はみんな真剣でした。選挙のビラって、受け取る人がいないんですが、人波を掻き分けてビラを受け取りに来る人がいる。拉致問題に関心が薄れたという人もいるけど、もし、そうならそんな反応はありませんよ」

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 確かに <同情> だけの関心は、この1年8ヶ月で潮が引くように薄れて行ったのかもしれない。ただ、拉致問題の本質を自分のことと捉え、<同情> を超えた <参加> へと自らを駆り立てる人々は以前より増えている。5月22日の小泉再訪朝の後の方が、今年に入ってからの拉致関連集会より動員を増やしている。幕引きなど、とんでもない思惑はずれだ。声高に叫ぶわけでなく、静かに怒りの炎を心に燃やしながら、被害者奪還への想いを募らせている人が増えている。

 電脳補完録のスーパーエディター、山本孝司はこう書いている。
「今回の選挙は(略)ボランティア頼みの一面があった。その割にはボランティアの募集にしてもよくわからない部分もあったが、それでも多くの方がボランティアとして馳せ参じた。私の知っている方は、サラリーマンとして日中の仕事をこなした上で、選挙事務所に行き夕方から夜遅くまで黙々と作業をこなした。土曜・日曜の休日は一日のすべてをボランティアとして事務所で、街頭演説の場所で、働いた。また街頭演説を聴きに行った方がビラまきの人数が足りないとみれば、その場で声をかけてビラまき、プラカード持ちを買って出た。そのような人々が動員ではなく、自らの意志で、驚くほどの人数が集まった。
彼らは声高に語ることはない。静かに集まって、静かに去っていく。目立つことはなかったかもしれないが、一番大きな力であったのではないだろうか。今後は、この静かな力をどう結集していくのかが問われているのかもしれない」

 私の知り合いも、最後の日、有楽町でビラ撒きを手伝っていた。休日には埼玉から都内まで出向き選挙運動を手伝う普通の会社員だ。最後の演説が終わった後、「それじゃあ」と言って涼しげな顔で駅に向かっていった姿が忘れられない。

 増元は最後の言葉を振り絞る。
「曽我ひとみさんがおっしゃっています。家族に会えるのは嬉しい、でも、曽我ミヨシさん、お母さんを救出しなければならない、お母さんともう一度会いたい。そうおっしゃっています。我々家族会のメンバーも皆、同じ思いなんです。拉致され、そして未だに帰ってこない私たちの家族ともう一度会って、そしてこれから先一緒に暮らしていきたい。そういう本当に心からの叫びなんです。その叫びを、なぜ日本の国は、日本の政府は無視してしまうんでしょうか。

 皆さん、この拉致問題、私たち家族会だけの問題ではありません。私たちの国、私たちの国の在り方が問われている問題です。この日本という国が、本当に私たちの家族、そして私たち自身の命、財産を守りきれるのかどうか、それが問われている問題なんです。今、日本政府が責任を持って、そして気概を持って私たちの命、生命、財産を守ろうとしないで、誰が私たちを守ってくれるんですか。その気概を示さないで、誰が国を信用出来るんですか。
 皆さん、100人、200人、拉致被害者は確かに1億2千万人に対しては、小さい数なのかもしれません。でも100人、200人を守りきれない国家、取り戻せない国家が果たして1億2千万人の命を、平和と安全を保証出来るんでしょうか。私にはそうは思えない。100人、200人を見捨てる国家は、最終的には国を失ってしまう国になってしまうんです。10年、20年たって私たちの国がなくなってしまうんです。そのことを皆さんに訴えて私は今回の参議院選挙に立候補いたしました」


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 時計を見ることもなく増元の演説は続く。残された時間は少ない。
「もう一度言います。100人、200人を見捨てる国は、1億2千万人を失ってしまう国家になります。是非皆さん、皆さんの明日の一票でこの国が、国民を守れる、明らかに当たり前の国にする一票にしてください。明日の投票で、皆さんの一票で、100人以上の拉致被害者を取り戻す一票にしてください。皆さんの一票で、めぐみちゃんを取り戻す一票にしてください。
 横田めぐみちゃんは生きています。田口八重子さんは生きています。有本恵子さんは生きています。増元るみ子は生きています。市川修一さんは生きています。石岡亨さんは生きています。松木薫さんは生きています。原敕晁さんも生きています。久米裕さんも生きているんです。そして、曽我ミヨシさんも生きています。100人以上の拉致被害者は今も北朝鮮で日本の救出を待っています。涙を流しているんです。是非、皆さん助けてやってください。お願いします」

 最後のフレーズを拉致被害者の名前を代えながらリフレインしている内に、増元は込み上げて来るものを抑え切れなかった。何とか「是非、皆さん助けてやってください。お願いします」と言い終えたのだが、堪えることは不可能だった。選挙カーの上で嗚咽し、白手袋で溢れ出る涙を拭った。7年前、家族会の産声を上げた同じ場所で、増元は選挙戦の最後を涙で終えた。
 8時までに残された数分間、選挙カーの周囲で増元コールが湧き起こった。そして、午後8時、増元の選挙戦の全てが終わった。報道陣の輪が解けた後、増元は私に想いのたけを打ち明けてくれた。

「選挙戦を戦う前に、家族たちの気持ちを訴えていかなければならないと思ったので、そういう意味で、色々な場所でみんなで家族の想いを訴えることができたのは良かったと思っています。その想いは通じたし、私のやるべくことは全てやったという気がします。選挙モードに入ってから、みんなの関心が高まって来たと思っています。とにかくボランティアの皆さんが一生懸命やってくれたんで本当に助かりました。ポスターは1万4千箇所ですよ。それを二日間で貼ってくれた。30万枚の証紙を全てみんなが貼ってくれました。だから、ボランティアの皆さんと一緒に闘った選挙だと思っています。予期せぬ形で手作りの選挙になったんだけど、これだけ皆さんが真剣に拉致問題を解決を願ってくれたんだと実感しました」
 明日のいい結果を期待ししてますよ、と水を向けると彼はこう答えた。
「結果は後から付いて来るんで、これまでやれば、勝とうが負けようが満足です。この選挙戦で一番強く感じたのは、拉致問題は絶対に終わらないってことです。確信しました」

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 7月11日、投票日の東京は雨だったが午後になると雨も上がり、時折晴れ間も覗かせた。増元照明は38万1771票を獲得したが、7位、惨敗だった。
 翌日、静かに彼はこう言って笑った。
「青島と共産党より下だったことが納得行かないんですよ」

 増元は姉のるみ子さんが北朝鮮に拉致されたと分かった後、選挙では社会党に投票していた。朝鮮労働党と友党関係にあったし、日本で最も北朝鮮政府とパイプが太かったからだ。その後、救う会の勉強会などで国際情勢を知るにつけ、そんな投票行為など全く何の役にも立たないことを思い知った。だが、多くの日本人は一昨年の小泉訪朝まで、社会党に投票し続けた増元と同じ認識だったのではないだろうか? 一昨年の小泉訪朝後の記者会見で増元はこう言ったが、生中継のテレビで伝えられた以外、どのメディアもこの映像を再放送していない。彼が選挙に出馬する1年8ヶ月前のことだった。

「今までこの問題を無視し続けた国会議員の方々、社民党、共産党の方々、何か我々に言うことがあったら、連絡下さい」
                              (文中敬称略・写真/西村幸祐)


再放送されない増元さんの記者会見

※推薦リンク
増元輝明さん、闘いの軌跡
http://trycomp.net/nippon/0407image/

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2004 Kohyu Nishimura