西村幸祐の仕事

           
 
 
Memory of World Cup FRANCE フランス大会の思い出-2


不思議な国のジダン  (初出「2002CLUB」・『八咫烏の軌跡』所収)

 1998年6月28日、フランス中部の田舎町ヌベールに程近いマニ・クールでF1フランスグランプリが行われた。この日、レース後にウイリアムズチームが出したプレスリリースの書き出しはこう書かれていた。
「驚くべきことに、今日ここフランスで、ワールドカップ以外の行事が行われたということを、私たちは表明しなければならない」
 もちろん、彼らF1チームならではの一流の冗句を冒頭に添えたのだが、それが冗談で済まなくなっていたのが、フランスの当時の状況だった。確かに、フランスGPの結果は新聞を眼を皿のようにして探さなければ知ることができなかった。これは歴史的な事件だった。

 よく言われているようにフランス人のサッカー熱はそれほど高くなかった。好きでいてもそれをラテン的に表現することを嫌う国民性がある。特に知識層から忌み嫌われているので、サッカーを殊更知的に解釈しようという風潮もあった。フランス大会一ヶ月前の世論調査で女性の20%しかワールドカップに興味がないことも喧伝されていた。実際、開会後も私が接した一般的なフランス人女性は、マルセイユでのフーリガンの暴動についてこう言った。彼女はホテルのフロント係だ。

「別に驚くことではないの。いつもそう。サッカーは、いつもああなるのよ。パリであいつらが暴れなかったことがせめてもの慰め。マルセイユの人は可哀想ね・・・」
 マルセイユの暴動は開会直後の6月15日の出来事だった。しかし、その二日後にフランスがサウジアラビアに大勝し、翌週のデンマーク戦にも勝利を収め、一次リーグ突破をトップで通過することが確実になった頃から、フランスの空気が徐々に変わって行った。

 そして、まさにフランスグランプリが開催された6月28日に、フランスは決勝トーナメント一回戦でパラグアイと延長後半24分まで死闘を演じ、劇的なブランのゴールデンゴールで準々決勝に駒を進めることになる。この日のウイリアムズチームのプレスリリースが冒頭紹介した書き出しになったのも無理からぬ事情があったのだ。しかも、ちょうどウイリアムズの広報担当がリリースを書いている頃、ランスでフランスはチラベルト率いるパラグアイと息詰まる戦いを繰り広げていた。

 

 この試合、ジダンはサウジアラビア戦のレッドカードの影響で出場停止だった。ジダンの不在がフランス苦戦の原因でもあったが、逆にフランスにとってジダンの存在を際立たせることになった。そしてそれは、フランス代表が、いみじくもフランスという国家を代表しているという事実を象徴的に表していた。ジダンはフランス人といってもフランスの植民地だったアルジェリア移民の選手だからだ。
「フランス代表といっても、ろくにラ・マルセイユズを唄うこともできない選手がたくさんいる。あれがフランスか? 黒人やアフリカ出身が多いからだ。あれは断じてフランスではない」

 96年にヨーロッパ選手権が行われた時、極右政党ナショナル・フロント党党首のジャン・マリー・ルパンはこう発言し、フランス代表が彼の政治的なプロパガンダに逆利用されたことがあった。一向に衰えない失業率、急増する移民人口と、フランスが抱える諸問題を排他主義で解決しようとした彼らが支持率を上昇させたことも確かだった。
 しかし、そんな国家的な問題がフランス代表がまさに異人種の混成チームとして活躍することによって、これまで感じられなかった人種、宗教、肌の色を越えた一体感をフランス国民にもたらしているのだ。つまり、2年前に「あれがフランスか?」と言われた代表チームが、<これがフランスだ> と大手を振って、明るく大声で返答できるようになったのだ。パリの地下鉄、メトロに乗れば、あの街がかつてフランク人の国、フランスと呼ばれた国の首都ではないということは一目瞭然だ。

 実際、パリの住民の20%はフランス人ではない。しかもフランス人の80%に移民の占める割合も多い。異人種間にある言葉では表せない断絶感、そして、それゆえの社会全体を覆う閉塞感、そんなフランス社会の疲弊した一面を、フランス代表が美事なファインゴールで打ち破ったのだ。
 7月3日の準々決勝でフランスがイタリアをPK戦で退けた時、そのうねりが一気に爆発した。シャンゼリゼで数万の市民が集まり、唄い、踊った。そして、7月8日の準決勝の勝利で、隣国のドイツ、イングランド、イタリア、スペインほどサッカーに熱くなれなかった国民が、恥じらいもなく、非ラテン系の人々も含め、ラテン的な振る舞いで喜びを大爆発させたのだ。シャンゼリゼを埋めた10万人が路上でウェーブを起こしたのだ!! リオ・デジャネイロでも、サン・パウロでもないのに!! 

 

 パリ市内の至るローターリーで、深夜2時過ぎまでクラクションや歌声が響き渡った。私の滞在していたプレス・ド・イタリー(イタリア広場)という土地柄は、黒人はもちろん、アジア系の住民も多い場所だった。もちろん、アジア系の若者も三色旗をうち振りながら、その歓喜の輪に加わっていた。
「驚いたことに、これまで一度もサッカー観たことがなかった母親が、テレビの前でアレ!アレ!アレ!と唄っていたんですよ。だから僕は、母親に、どうしたんだ? 何かあったのか?と聞いたんですよ」と準決勝の翌日、笑いながら話してくれたのは、28歳のステファンだ。親日家の白人の彼はこう続けた。
「そうですね。確かに人種や肌の色を越えたところで、一体感を感じるし、フランスのアイデンティティを確認できたんですよ」

 フランスがクロアチアを破ったサン・ドニは、多くの失業者を抱える街で、悪い喩えで言えば、パリとサン・ドニの関係はマンハッタンに対するブロンクスのようなものだ。その上、当時サン・ドニには、フランス全国に在住する300万人のアルジェリア移民の内、3000人が住んでいた。サン・ドニに住むアルジェリア移民は、ワールドカップのチケットとは無縁な存在だ。しかし、UFOを思わせる巨大なスタジアムから聞こえる歓声と、テレビに映し出されるジダンの姿が、苦しい彼らに活力を与えていたのは間違いない。
 96年頃、シャルル・ドゴールからパリ市内に向かう高速道路から見えた工事中のUFOは、サン・ドニの景観とは異質なものだった。しかし、この異質なUFOは、確かにサン・ドニに飛来したのだ。

「日曜日の決勝戦では、パリ市内の公園、スタジアム、競馬場など4カ所に決勝をテレビ観戦できる巨大スクリーンを設置する」
 1998年7月10日、フランス大会組織委員会は急遽この様な発表をせざる得なくなった。不思議な国に舞い降りたUFOは、フランスの国民性まで変えてしまったのであろうか?

この項続く >>>


 
 
 
 

 


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2004 Kohyu Nishimura