Memory of World Cup FRANCE
フランス大会の思い出-3
青の衝撃。20世紀最後のワールドカップが、終わった。 (初出「2002CLUB」・『八咫烏の軌跡』所収)
フランス人のフランス人によるフランス人のための、ワールドカップ-----。今大会を振り返ると、誰でもこんな言葉を思いつくだろう。
フランス人ジュール・リメが創設したワールドカップが、1930年のウルグアイ大会以来初めて母国に還ることになった。すでにカップは、ジュール・リメ杯ではなくワールドカップになっているのだが、フランスで開催された第3回大会でフランスは二回戦のイタリア戦に敗れたので、フランスにとっては、まさに悲願の初優勝であった。
面白いことにフランスという国は、世界選手権を何でも最初に作る器用さ、才能を持っているのに、世界チャンピオンになることがなかなかできない癖?がある。1904年にグランプリレースを世界で最初に始めたのもフランス人だった。しかし、フランス人の世界チャンピオンが誕生するまで、1984年のアラン・プロストの出現まで待たなければならなかった。
1984年も、アラン・プロストはマクラーレンのマシーンと共にシャンゼリゼをパレードした。しかし、今回のパレードは、その時とは全く比較にならない規模で行われ、青い衝撃が、フランス社会全体を巻き込んで、フランスの歴史上で類を見ないものになった。1789年のバスティーユ襲撃に端を発するフランス革命、1944年の第二次大戦下のパリ解放と、この二つの歴史的な出来事以上の人出だったのだから、これからのフランス社会に大きな影響を与えることは間違いない。やはり、あの優勝は革命に等しいインパクトとパワーを持っていたのではないだろうか。
フランスがワールドカップ初優勝を飾った翌日のパリの天気予報は雨だった。確かに早朝に雨が降ったらしかったのだが、私が起きたお昼頃には、決勝の日のような晴れ間が覗いていた。しかも、陽射しが温かい。7月12日にグラン・ブルーを祝福した清々しい青空が、再びパリを覆うことになった。午後3時半頃からシャンゼリゼ通りで行われたフランス代表チームのパレードに、ちょうどお誂え向きのスポットライトが当たったようだ。
22人の選手とジャケ監督はワールドカップを手に、特別誂えのオープンカーになったバスでシャンゼリゼを出発した。面白いことに、シャンゼリゼに集まった群衆がそれこそ立錐の余地がないほどに埋め尽くしてるので、バスがなかなか動けないのだ。シャンゼリゼには60万人が集まり、彼らの凱旋を祝った。
もし日本でこの様なパレードが行われることになったら、交通規制をしてパレードの車が滞りなく動けるようにするだろう。パレードと見守る人々の間にパレードを進行させるための
<秩序> が欠くべからざるものとして用意されるはずだ。それは、パレードの主催者が用意する <秩序> ではなく、社会が要請する
<秩序> として用意される。しかし、フランス代表の凱旋パレードには、社会に要請された <秩序> がないのに、主催者側の意に添って円滑に行われた。
前夜の祝祭ではシャンゼリゼを百万人以上が埋め尽くし、凱旋門にフランスイレブンやジャケ監督の顔が映し出された。その時も午前3時過ぎに数十人が死傷する事故が起きるまで、ほとんど規制は行われなかった。前に、ここは大人の国だからと書いたが、別の言葉で言えば
<秩序> はぎりぎりの所まで社会から要請されないのだ。個人主義の国が戦争並の連帯感で結ばれたのも、社会が個人にぎりぎりまで
<秩序> を要請しないのも、個人の確立という前提があるからなのだ。パリ市内の外国人にとっての酷い運転作法も、<無秩序>
が確立された個を通して <秩?> を構成しているというフランスの事情に基本的なラテン気質が加わったものだ。
ところで、決勝戦のブラジルの出来は今大会最低のものになったが、その元凶はロナウドの原因不明の病気にあった。病院に救急車で運ばれ、キックオフ直前に病院からスタジアム入りしたロナウドを使わざるを得なかったことが、ブラジルのパフォーマンス急降下の最大の理由だった。なぜ、ザガロ監督はそんなロナウドを最後までベンチに下げなかったのか? それは、ブラジル代表が10年間で60億円〜100億円と言われている契約を交わしているスポンサー、ナイキの影響ではないだろうか。決勝でハットトリックを決めれば、ロナウドは得点王にもなれたのである。
また、その後の情報を整理すると、ロナウドが突然宿舎から病院に運ばれたため、ブラジル代表のスタジアムに向かうバスの車内は、まるで葬儀に参列するバスの雰囲気のようだったという。推測で書くしかないのだが、セレソンを襲ったそんな雰囲気を払拭するために、ザガロはロナウドを先発させたという説も成り立つ。スポンサーの要請もあったのだろう。その結果、ロナウドが所属するインテルの代表、マッシモ・モラッティからブラジルサッカー協会は「不条理」と非難され、皮肉なことに、ナイキも決勝で最大のライバルに敗北することになった。フランス代表の
<グラン・ブルー> が身に纏っていたのは、アディダスだったからだ。
大会全体を振り返れば、かなりの問題点も残った。バックチャージは即レッドカードという審判委員会の方針も徹底されず、その上判定基準に大きな隔たりが見受けられた。また、チケットスキャンダルの温床になったのは、ヨーロッパの不透明なチケット流通システム以上に、FIFA内部を蝕んでいる黒いスポーツ組織だったのではないかという説もある。そもそもチケットの60%をフランス国内での販売、と決めたフランス大会組織委員会のやり方に問題があった。そういう意味で、「フランス人のためのワールドカップ」というやっかみの声が聞こえてきても不思議はなかった。
にもかかわらず、7番目の優勝国として開催国フランスが優勝した98年大会は、大成功だったと言っても過言ではない。今世紀の始めに一人のフランス人が発案したワールドカップが、フランスへもたらされるという最高のシナリオが、20世紀最後のワールドカップに用意されていたのだ。
21世紀最初のワールドカップになる2002年に、日韓両国はどんなシナリオを用意できるのであろうか?