99年7月2日、コパ・アメリカのグループリーグ第2戦で日本はパラグアイに0−4の屈辱的な敗退を喫する。パラグアイの首都、アスンシオンで行われたこの試合で日本は前半半ば、守備ライン前のスペースのマークが甘くなり、ベニテスのミドルシュートを決められると、その後もゾーンで守るDFの間に的確なパスを送るパラグアイの攻撃に守備陣が混乱し、再三、ピンチを迎えた。前半終盤にはバイエルン・ミュンヘンへ移籍することが決まったばかりの若干17歳、サンタクルスのヘッドから失点、前半で0−2とリードされ、試合の興味は失われてしまった。特にこの2点目が問題だった。サンタクルスが縦への鋭い突破を図ると、フラット3の最終ラインがそのまま横並びのままフラットにズルズル後退し、3人の間に入れられたクロスにサンタクルスはノーマークのままヘディングシュートを日本ゴールへ突き刺した。後半も気落ちした日本から2点を奪い、破綻したフラット3だけが残こされた完敗で、攻撃にも見るべきものが何もなかった完敗だ。
と、このように2年前を思い出しながら書いていると、どこかで見たシーンと酷似していることに気付く。そう、それは、2001年3月24日に行われた、フランス対日本戦の光景である。ただ、日本代表のメンバー編成が変化したのは前述の通りだ。この頃は、「フランス組」中心の編成だった。フラット3の戦術もまだ基本形のみで応用ができていなかった部分もある、最終ラインの誰かが敵の突破を止めるためにフラットのラインをブレークして未然にゾーンへの侵入を防ぐことも行われていなかった。
ただ、井原だけが自分の判断でフラットラインを崩しながら敵の突破を防いでいたシーンが印象に残っている。そういう意味では、メンバー編成を含めてトルシエのフラット3の初期段階のチームを2001年のフランス戦を戦ったチームと単純比較するのは危険があるかも知れない。しかし、逆に言えば、1年9ヶ月を経て選手のメンバー編成も、戦術の理解度も深まって来た中で、0−4以上の0−5という敗北を甘受した「サン・ドニの屈辱」は、「アスンシオンの屈辱」を遙かに上回る危険を孕んだものなのかも知れない。
結局、1年9ヶ月前のコパ・アメリカから日本代表は進歩したのであろうか? 当時、共同通信の田村崇仁は長文の記事をこう打電した。
「日本のサッカーはまだ正直すぎて幼い。大会を視察する南米サッカー連盟(CONMEBOL)の技術委員、南米の各記者の意見は、こんな言葉に集約される。昨年のワールドカップ(W杯)大会初出場から約1年。日本が世界へ組織力で立ち向かう方向性に変わりはない。だが、技術と戦術面に優れた南米各国と渡り合うには組織力だけでは勝負にならないのも現実だった。
その差は単純に走るスピード、当たりの強さ、基本技術にある。さらに日本の数々のミスを生んだのは、南米のより高い組織力による圧力なのだから皮肉なものだ。『リズムが90分間変わらない』、『チームにどっしり構えた重厚感がない』。騒々しいオフィスで、パラグアイの有力紙『ABCコロル』のカセナーベ記者はため息交じりだった。サッカー取材歴は20年。W杯フランス大会で日本の成長を目の当たりにし、予選リーグA組でパラグアイと首位を争うライバルとみていたのだという。
一方で、CONMEBOLのアルバレス技術委員(アルゼンチン)は『最終ラインから球をつなごうとする近代サッカーの意識は出ていた』と評した。ただ、DF井原(横浜)が『もっとパス回しに遊びを入れたかった』と話したように、苦し紛れに前方へけり出す“幼い”場面も目立った。結局は相手の強い寄せを逆手にとってもてあそぶ技術と余裕がなかった。ほんの数センチのパスミスが命取りになる。DF秋田(鹿島)はペルー戦でつばをかけられて相手FWに挑発された。とても一言では表現できない壁。しかし、これほど貴重な教材になる大会をチームの帰国後もパラグアイに残って視察する日本協会の技術委員はいない。多忙を理由に…。」
しかし、幸か不幸かは別として、トルシエの基本戦術であるフラット3が客観的に分析される以前に、日本代表のメンバーは大きく編成を変え、さらに、99年のナイジェリア組によるU−20世界選手権準優勝、ナイジェリア組とシドニー組がシャッフルした2000年シドニー五輪のベスト8、各世代が完全にシャッフルした2000年アジアカップの優勝、と日本代表は確実に国際舞台で結果を出し続けてきた。その結果、そういうトルシエの計り知れない功績や日本サッカーに刺激を与え続けたプラス面を全て含んで、<現実>
に直面したのが、「サン・ドニの屈辱」だったのである。
したがって、就任以来2年半、毀誉褒貶の嵐の中で揺れ動いたトルシエ像は、今度こそ決定的に <評価> されなければならない時期を迎えている。2001年3月24日のフランス戦と4月下旬のスペイン戦、さらに5月からのコンフェデレーションカップが、いかに重要な試合であったかということだ。
そういう意味でも、日本対フランス戦の <現実> から絶対に私たちは目を背けてはならない。中盤でボールをキープできなかったのは予想された当たり前のこととしても、数少ない得点機が組織として生み出されたものでなく、中田英寿の個人技でしか生み出されなかったことは、トルシエ監督にも大きなショックを与えたはずだ。さらに言えば、致命的だった前半の2失点がいずれもミスから起きてしまったことも重要である。精神的な強さ、したたかさを日本代表に求め続けてきたトルシエにとって、あの失点シーンは、悔しさを遙かに通り越したものだっただろう。
トルシエが日本に持ち込み、様々なカルチャーラグやギャップの中で齟齬してきたのは、じつはフラット3という戦術自体にあるのではなく、そのコンセプトや思想が様々な齟齬を生むことで、日本人選手のメンタリティーを変えようとしたインパクトにあったのではないかと思っている。そういう意味で、トルシエは母国フランスの8万人の観客の前で二重の敗戦を喫してしまったのだ。つまり、戦術的な敗戦であると同時に、精神的な成長を促してきた日本代表選手たちのメンタル面での敗北が、トルシエのチームマネージメント上の失敗に行き着いてしまう。
後半27分のシュートのように、中田英寿一人のみがプロらしい働きを見せてくれた。ここで問題なのは、プロ意識を含めてトルシエが日本人選手の精神改造に取り組んでいたにもかかわらず、誰一人としてピッチ上で個の主張をした選手がいなかったことだ。シドニー五輪でトルシエと対立した中田のみがトルシエとのコラボレーションを奏でられたのは皮肉だった。シドニー五輪ベスト8、アジアチャンピオンという模造紙でできた勲章を、彼らは惜しげもなく捨て去ることができるのか? それは、トルシエにも、日本代表に選出された選手たち全員に問われる苛酷な問いなのである。
しかし、アジアチャンピオンという模造紙製の勲章をベイルートの眩しい光線を反射させる地中海に投げ込むことによってしか、彼らが世界の <現実>
と対峙し、戦えることはないだろう。そうして初めて、トルシエと日本代表が2002年ワールドカップで決勝トーナメントに進出できる可能性が生まれるのだ。
トルシエはフランス戦直後に気落ちした表情を隠すことなくこう言った。
「予想以上に高いハードルだった。フランスは個人も組織も素晴らしいサッカーを見せた。ドイツ戦を見ても分かっていたが、再びそう思った。具体的にはフィジカル的に負けた。競り合いがどれだけ勝てたか? 1回も勝てなかった。特に重いグランドだとフィジカル的に強い方が勝つ。この状況の中でプレーできたのは中田だけ。こういう状況でやることに慣れていたから、彼だけは余裕があった。あとは難しかった。
もちろん精神的に問題があった。特に立ち上がりに1点を取られてビハインドになったことが大きかった。五輪、アジアカップに勝って周囲の期待も大きかったが、今日の試験は失敗だった。だけといい経験になる。
学ばなければならないのは全てだ。フランスのレベルへの道は長い。今日は素晴らしい相手と試合ができた。宇宙人に近い。自信を取り戻して、もっとやりやすいチームとやって、オートマティズムを取り戻したい」
4月5日に帰国して翌日臨んだ記者会見で、トルシエは会見では珍しくホワイトボードを用いながら2時間以上掛け熱弁を揮った。だが、そのほとんどの言葉は<現実>を回避する話術のように聞こえてしまった。ただ、一つだけ、真実の言葉と思えるフレーズがあった。トルシエはこう言った。
「傲慢さを捨てなければならない」
その後、日本代表は2001年4月、アウェイのスペイン戦を守備重視で戦い、試合終了直前までスペインを0抑え、0−1で敗れたもののフランス戦の混乱を修正した。2001年6月に日韓で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップではグループリーグを突破、決勝で再びフランスと対戦、0−1で準優勝に終わったが、各大陸連盟の覇者が集う大会で決勝進出という成果を挙げた。2001年11月のイタリアとの親善試合も0−1で勝利は掴めなかったが、ワールドカップ直前の1年間をフランス、イタリア、スペインという列強と戦う中で、トルシエは2002年を戦える確固たる自信を掴んでいた。
「明日、ワールドカップが始まってもだいじょうぶさ」
イタリア戦後の記者会見でこれまで見せたことのない柔和な表情でトルシエは言い切った。そんな彼を見て、今後のトルシエと日本代表の行く末を、温かく、そして、厳しく、見守ろうと思った。