西村幸祐の仕事

           
 
  特別企画
日本は、占領軍GHQに、どう洗脳されたか?
WGIP(War Guilt Information Program)を検証する。

※保坂正康氏と山本武利氏の対談、横山陽子さんのインタビューは平成16年1月号の「諸君」(文藝春秋社)に掲載されました。転載に快諾頂いた、保坂氏、山本氏、横山氏並びに、文藝春秋社、「諸君!」編集部に心から感謝いたします。


GHQの郵便検閲を振り返って 横山陽子さんに聞く
インタビュー・構成 西村幸祐

 昭和二十年終戦直後からGHQによって始められた郵便検閲は、多いときで八千人の日本人が従事したと言われている。しかし、山本武利氏が対談で指摘しているように、不思議なほど検閲官だった人の証言が少ない。昭和三年(一九二八)生まれの横山さんは終戦時十七歳、府立第五高女(現都立冨士高校)に在籍し、作家の津村節子さんの同級生だった。学徒動員で軍需工場へ赴いていた彼女は、終戦の翌年、日本女子大に進み、検閲官の仕事に就いた。今の言葉で言えば、アルバイトである。

「今になって私が敢えてこのことを口にするのは、人々の知らないうちにこのようなことが行われる、これも戦争と言うものの一面であることを人々に知ってもらいたいと思うからである。それから、戦後の皆がなりふりかまうひまも無かった時代に、若すぎた私だったというものの、そういう仕事に就いていたこと、毎日三百通もの郵便物に目を通し、つまりそんなにたくさんのひとの信書の秘密をおかしたことを、お詫びしたいと思うからである」と九三年に自費出版した『鎮魂の花火輝け隅田川』の中で彼女は複雑な心情を吐露した。
 その四年後、『ああ青春』(近代文芸社)で横山さんはこう追記する。
「思い返してみると、命永らえ、健康を取り戻し、廃墟の日本を建て直すために、アメリカの手を借りたことを卑屈になる必要はないし、生きるために、精一杯その時その時に与えられた仕事をしてきたことは、それはそれでよかったのだろうし、有り難いことであったと思うようになっている」
 そして、戦後五十九年目の平成十六年を迎えるいま、知られざる郵便検閲官の内面を再び彼女は語ってくれた。

 横山 検閲局の上の人たちは進駐軍の将校でしたが、検閲を行っていた人はほとんど日本人でした。学生が多かったですね。私は大学に入っても英語をきちんと勉強していませんでしたから、女学校時代が津村節子さんの本にあるように戦争中で、動員されていましたから。初めクラークという検閲する手紙を配る仕事だったんですが、「そんなことをしていたらもったいないよ」とアメリカ人に言われて、周り中が英語の先生のようなもんですからみんなから英語を教わって、トランスレーターの試験を受けたんです。トランスレーターになってから、ジュニア、ミドル、シニアと三段階を上がって行きました。

 −−検閲官に三段階のレベルがあったんですか?
 横山 入学試験のように長文の和文英訳の試験があり、その結果で分けられたんです。レベルによって待遇は違うんですが、仕事内容は全く同じでした。アトランダムに選ばれた手紙を検閲するので難しい、易しいという区別はなったです。各セクションシにトランスレーターの中から任命されたチーフがいて、ファーストアシスタント、セカンドアシスタントがいました。彼らは私たちの翻訳をチェックするんです。

 私はパーソナルセクションという部署でしたが、そのセクションの一番偉い人が進駐軍の人でDAC(Deputy Assistant Censor)と呼ばれていて、最終チェックをしていました。DACの両脇に日本人の優秀なアシスタントがいました。内容があまり酷いと赤だらけになって返されるんですが、私は幸いなかったです(笑)。東京駅前の中央郵便局の中に検閲局があり、三階、四階、五階と三フロアを使っていて、私がいたのは三階でした。

父の収入を上回った検閲局の給料

 −−学校で検閲官を募集をしていたということはなかったんですか?
 横山 いえいえ、飛んでもない。知り合いに声をかけるという方法が一般的だったんでしょう。もちろん、私は学校に内緒で働いていました。朝起きてから十時まで学校に行き十時から三時まで働き、また学校に戻る。学校と検閲局を行ったり来たり大変でした。
 仕事を見つけたきっかけは、お隣の奥さんの従兄弟で東大の学生だった人がよくお隣に遊びに来ていたんです。学習院の高等部から東大に行った人で、バンドを作って進駐軍の将校のパーティで演奏していたんです。女の子がいないと殺風景だから行ってくれとお隣の奥さんに言われたんですが、その彼のお姉さんが検閲の仕事をやっていました。

「進駐軍と言ってもじかに進駐軍と接触するわけではないし、学生が多いから」と誘われたんです。「やり方によっては給料もいいし女子学生は東京女子大、日本女子大、津田塾で津田塾が一番多い」と言っていました。学校みたいで結構楽しんで働いていますという話で。私はまずクラークとして採用されたんですが、面接と英語のテストがありました。
 父が教員だったんですが、当時の生活は苦しくて大変なインフレーションだったので、給料の内五百円だけを現金でもらって後は小切手でした。どんなに努力しても五百円ではとても暮らせません。だから、みんな知恵を絞って内職をしていました。近所の奥さんはお芋のお饅頭をふかして池袋の闇市で売っていて、みんなが貧乏でした。父が堅かったので闇市も認めないし、少しでもいい給料のアルバイトを見つけたかった。

 検閲局に行く前に将校宿舎のメイドの面接に一度だけ行きました。青山学院の女の子と一緒になって、「情けないわね、戦争に負けるとこんな事になって」と言っていました。合格したら住み込みだって言うんですね。試験官の将校が気に入ってくれたのか、任期が終わったらアメリカに留学させるからと言うんですよ。その手は喰わぬ(笑)、という感じでお断りしました。本当だったかも知れないし、悪い人だったかも知れない。私は長女だったこともあるし、進駐軍の将校の女中になるなんて言ったら父は腰を抜かしただろうし、眉唾物だと思って行かなかったんです。大学の授業料は入学した年は年間三百円でしたが、インフレで一年間で三千円になるような状況でした。

 −−学生以外にはどんな人が従事していたんですか、年齢層とか。
 横山 戦争に行かなくてもいいような年格好の方もいました。慶応出の上品な方もいましたが、靴の左右が違っていて、今のホームレスが眩しいような格好でしたね。同じセクションに大連で漢方薬局を営んでいた方もいて、自分が働いて弟さんを学校に出していたんです。支那服を着ていて、夏服冬服それぞれ一着しか持っていませんでした。その方に励まされたことがあって。仕事の内容も内容だし、うら若き乙女にとって何一ついいこともないし、時々落ち込んで一人で涙を流したこともありました。そうすると、自分の苦労話をしてくれました。ここに就職できるまで弟と大根一本を齧って暮らしていたと。布団を被って寝ていても動くとお腹が空くので身体を動かないようにしていたとか。

 −−見ず知らずの人の私信を一日三百通も見て、それを英訳するという仕事に抵抗はありませんでしか?
 横山 最初はもの凄く抵抗がありました。初めに仕事の説明を受けて「この廃墟の中で苦しんでいる日本人をの生活を復興させるために、進駐軍は日本人の本当の姿を知る必要がある。進駐軍が日本人の生活を把握するための大切な仕事なんだ」と言われました。それはそうだと思うんですが、ここでやっている仕事のことは口外してはいけないと言われました。

 なぜなら、この仕事の意味を一般の日本人は分からないので裏切り行為者だと思われるからと。そう言ったのはマツシマという将校だったんです。二世だと思っていたんですが、どうも違ったらしいです。なぜ、そういうポジションにいたのか分かりませんが。あの時、父が五百円しか現金で給料がもらえないと苦しんでいたときに私の最初の月給が四百五十円だったんです。クラークの時は千円以下でしたが上級になったときは家族を養えるくらいの三千円をもらいました。昭和二十三年に婚約して仕事を辞めるころは八千円になって、辞めた後も差額が三カ月分も支払われました。

戦争に負けるということ

 −−記憶に残った手紙はありますか。
 横山 けっこうありました。田舎の人に東京は今こんな状態だとか、物価はどうだとか、そういうことを知らせる手紙が多かったので、検閲する手紙にプライスリストという分類がありました。プライスリストの手紙に当たると検閲が楽だったんです。お米が幾ら、ゴボウが幾らと翻訳すれば良かったので。野菜の名前は随分覚えましたね(笑)。それと、皇室の方が女優さんに出したファンレターとか(笑)、皇室関係は開けてはいけないことになっていました。見たいなと思ったんですが(笑)。

 −−保阪正康さんと山本武利さんの対談で話が出たんですが、占領軍の暴行を目撃したという手紙を書いた人が逮捕されているんです。占領軍を批判したり、アメリカへの反抗的な内容の手紙はありましたか?
 横山 逮捕はあったでしょうね。私は幸いなことにその種の手紙は見なかった。進駐軍のことを批判しながらマッカーサーへ感謝の言葉を書いた手紙は結構あったんです。もの凄く濃厚なラブレターを読んで腰を抜かしたこともありました。髪の毛を抜くと毛根まで抜けるでしょ。毛根は便箋にくっつくんですよ。それを便箋に何本も並べて貼ってあったんです。

 −−(笑)凄いですね。でも、殺伐とした話題の中でなかなかいいんじゃないでしょうか。ところで、今、検閲の仕事をしたことを振り返って、何を一番私たちに伝えたいですか。
 横山 結局、郵便検閲をされるようになったのは、これぞ、戦争に負けるということなんだ。戦争はしてはいけないものだけど負けたときの惨めさですね。自分たちのプライバシーがゼロになってしまって、それでも何も言えない。そういう状態に陥るのが戦争で負けるということなんだ。それを言いたいですね。

「諸君!」平成16年1月号所収)


 
 
 
 

 


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2004 Kohyu Nishimura